父親が死んだ

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きょう、実の父親が死んだと、地元の警察署から電話があった。

近所の人が訪問しても応答がなかったため、警察と消防が中に入ったところ、自宅の床に倒れていたそうだ。68歳だった。祖父は90歳過ぎまで生きたから、それくらいまで生きるのだろうと勝手に思っていた。死んだといわれても実感に乏しい。

命の灯火が消える瞬間、何を思ったのだろう。そんなことを考えてしまう。きっと脳裏に浮かんだのは私の顔だったのではないだろうか。関係性がよくなくて、私は近年ずっと父に会うことを避けていた。春先に来た「会って話したい」というLINEにもあいまいな返事をした。8月には「ステーキでもどうだ」と連絡が来たけど、それも無視した。

今さらステーキにつられるわけもないのに、その発想がいじらしい。ステーキくらい付き合ってやればよかった。

後悔はしないと思っていたのに、いざこの日が来ると胸が痛い。

私は、父が35歳のときの子どもだった。今でこそ少なくないが、当時はかなり遅い子どもだっただろう。きっと、結婚も子育てもあきらめ始めていたころに、結婚の機会に恵まれたのではないだろうかと思う。

だから、私は父に怒られた記憶はない。一度はあきらめていた「父になる」という夢が叶い、きっと父なりに溺愛していたのだ。怒ることができないほど、私のことが可愛かったのだろう。父にとっては、毎日がホームドラマを演じているような日々だったのかもしれない。

でも、私の推測でしかないけれど、父は先天的に何かを抱えていたように思う。注意力や共感力が著しく欠けていた。財布や通帳を落とし、靴は脱ぎっぱなし・電気はつけっぱなし、ストーブの周囲をススだらけにしたこともあった。長年押し入れにあったホコリまみれのものを平気でそのままリビングに持ってきたりと、「ケンカの種」を作り出す天才でもあった。

体調が悪くて寝てる人に「横になって同情買うの楽でいいね」などと平気で言うこともあった。悪意をもって言うなら救いもあるが、悪意なく人を怒らせることも少なくなかった。

だから、物心ついた時からウチでは夫婦喧嘩ばかりしていた。どこの子もそうかもしれないが、私はいつも母親の側についた。

父は、山梨の工業高校卒で、空調設備の仕事をしていた。工場や病院といった大きな建物の図面を作り、現場監督などをしていたらしい。「高卒」というのが年を重ねるごとにコンプレックスになっていったのか、東大とか慶応といったネームバリューにはめっぽう弱かった。一緒に仕事を進める空調大手の社員には、きっとそういった名門大学を出ている人も多かったのだろう。

父は自営だったから、景気がいい時には月に何百万も稼いだが、悪い時には数カ月仕事がないこともあった。二日酔いで仕事を放りだすこともあり、それでまた夫婦喧嘩になっていた。

私が東京の私大に入った後は、インドネシアでの仕事を引き受けて単身で国外に飛んだ。きっと息子を「大卒」にしたいという強い思いがあったのだと思う。二日酔いで仕事を放り投げていた男が、言葉も通じない海外へと飛んだのだから、男の意地である。名門大学とまでは呼べないかもしれないが、そうして私は大学を卒業したのだった。

父は、幼稚園児がそのまま大人になったような人だった。周囲から「どうしたの」「大丈夫?」と言われたいのが見え見えなほど、自分に注意を向けようとする人だった。

食事中に舌を噛んだだけで「ウェーーーー!!!」などと絶叫したこともあった。今となれば少し笑い話だが、当時は「どれだけかまってちゃんなんだ」と思った。

周りに「かわいそうに」と言われて優しくされたい人なのだ。子どもでもそういう子よくいるけど、うちの父は大人になってもそうだった。

また、風呂に入るとか、歯をみがくとか、洗濯をするとかそういった基本的なことさえできなかった。やっぱり何か先天的なものがあったのだろうと思う。

今年の4月に母親が家を離れ、離婚調停が始まってからは独居状態となった。母親側の弁護士が言うには、父親は調停にはヨレヨレな状態で現れたらしい。きっと洗濯も乾燥もままならず、シワだらけの服で裁判所に来たのだろう。髪だってボサボサだったかもしれない。

パリっとした服を着ていれば、人の見る目も違うのに。バカだなあと思う一方、これを不憫に思わない子どもがいるだろうか。

ヨレヨレの姿で調停員に白い目を向けられていたのではないかと思うと、胸が痛い。

今年の3月に、少しだけ実家に寄った。両親の夫婦関係が一層険悪になっていたので、少しでも雰囲気が良くなればと思って。

深夜に仕事が終わって、そのまま寝ずに高速で向かった。到着は明け方5時前くらいだったと思う。

まだ空も暗いなか、リビングで母と話していたら、父が部屋に入ってきて「ボイラーがもったいねえ」と言った。ボイラーとは、給湯設備のようなもので、灯油を使っていた。

遠路はるばる来て第一声がそれかと思った。だけど、父はそういう憎まれ口でなければ、会話に入ってこれない不器用な男だとわかってもいた。

本当は私の到着を今か今かと待ちわびていたくせに、素直にそれが表現できない男なのだ。(悲しいかな、私もそういうところがある)

わかっていたのに、私はムッとした気持ちを抑えきれずに、早々と実家を離れることにした。父は「何かおいしいものでも買ってこようか」と言ったけど、私は「もう帰る」と言って家を出た。私の車を見送る父が、とてもヨボヨボに見えたのを覚えている。「年を取ったな」と思った。

その時、父は「もう来ないか…」とつぶやいていた、と後で母から聞いた。

そんな喧嘩別れが父との最後の対面だった。いや、喧嘩別れというより、私の機嫌を損ねて慌てる父を振り切って私が実家を後にしたのだ。

そんな最後。

思いつくままに、書きなぐっているきょうのブログ。父に対する怒り、感謝、同情、後悔、申し訳なさが同居している。

昨日、すき焼きを食べた時、父も食べたいだろうなと思った。ねえ、もうその時には死んでいたの?

なんだか切ない。気持ちの整理がつかない。

直接言うことは叶わなかったけど、ありがとう。

いや、直接言う機会はいくらでもあったのに、それをすべて捨ててきたんだ。

ごめんね、お父さん。

でも、あんた、かなり生きるの下手だったよ。俺も下手だけど。

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この記事を書いた人

八王子でトイプードルと暮らしています。日常の思い出をつづります。

コメント

コメント一覧 (9件)

  • 大号泣してしまいました。
    私も父を亡くしています。
    65歳でした。
    同じように不器用で、家族を困らせてばかりの父でした。
    でも不器用で、本当に生きるのが下手くそで、、美味しいものをもっと食べさせて上げたかった。
    もっと親孝行させて欲しかった。
    今、取り戻すように母に親孝行をしています。
    でも、父にも親孝行したかった。
    大丈夫だと思っていたけど、気持ちがぶわっと戻ってきました。
    天国に行った時には父に会って、たくさん話をしようと思っています。

  • 貴方の愛は必ずお父さんに届いています。直接言えなかったかもしれませんがお父さんには届いています。どうかそう信じて欲しいです。

  • お悔やみ申し上げます。Xにランダムで流れてきた投稿で知りました。私も30代で父との関係が良くなく、しばらく会っていません。私の父も不器用な人で、私が大人になってからはきっと何か発達障害であったり先天的な問題があるのだろうなと理解していますが、今だに歩み寄れていません。少し境遇が似ているなと思いながら読ませていただきました。現在私がアメリカに住んでいて、なかなかすぐ会える状況では無いのですが、次回の一時帰国の際には会いたいと思います。

  • 最後のごめんね、お父さんからを声に出して言ってみてください、まだ近くにお父さんがいると思って。
    きっとお父さんもごめんねって思ってますよ、口に出さないだけで。

  • ツイッターでタイトルを見て、気になって気になって、仕事終わりに駐車場ですぐ読み、自然と涙がぼろぼろと出てきました。
    私も同じです。父とは良い関係ではありません。そしてそれは現在進行系です。
    ブログを読んで、私はあなたの過去にいる人間だと思いました。
    好きだった所も、尊敬していた所もたくさんあって、それでも許せない所もあって、家族としての関係を続けていくのが苦痛で、
    来年、家を出る予定と共に、連絡を経とうと決めていました。
    後悔することがあるかも知れない、それでも、と考えに考えて、今、それを実行する手前の所に私は立っています。

    あなたの姿に、勝手ながら自分を重ねました。
    どうしてそんな言動を取るのか、どうしても許せない、付き合っていけないと思う父だけれども、父にとってはそうとしか行動出来ないんだろうなと思う気持ちも、あの時は折れて声をかけていたんだという気付き、返事ぐらいしてあげれば良かったという気持ちも分かります。

    父が亡くなったという連絡が入った時、私はきっと、あなたと同じようなことを思い、後悔するんだろうと思いました。
    おそらく、今なら引き返せるのでしょう。

    “機嫌を損ねて慌てる父を振り切って私が実家を後にした”をまさに今実行しようとしていた気持ちが、今後絶対に連絡を取らないと決めていた気持ちが、このブログを読んで、揺らいでいます。
    ですが、こちらが歩み寄ろうとした時、父特有の言動で自分はこれまでと同じように傷付くんだろう、父は変わらないだろうという気持ちは変わりません。

    他所様のブログで自分語りをしてしまい、申し訳ないです。
    まるで未来の自分を見たようで、過去のあなたと似たような存在が、今あなたのブログで迷い始めたということを、話したかったのです。

  • はじめまして。Xでポストを拝見しこのblogへたどり着きました。

    30歳の独身女です。大卒後就職とともに上京し、それ以降一人暮らしです。
    元々そこまで家族関係が悪いわけではなかったのですが、諸事情あり3年ほど前から家族との関係が悪く、一方的に連絡手段を遮断しています。諸事情についてですが、今となっては些細なことだと思いますが、その時は、20代の大切な時間をここまで使い、わたしは何をされていたの?って思っていました。
    その後、あらゆる手段を使ったのでしょう、複数の親戚から連絡が来ました。(いなくなったって聞いたよ?どこにいるの?何してるの?など、、)今は全て遮断しています。
    3年ほど経ち、わたしの気持ちも少し落ち着きました。また連絡してもいいかな、会ってもいいかなと思う気持ちもありますが、ここまで遮断しておいて突然連絡するのも変な感じで、、、。なんと言って連絡したら良いのかも分からないし、家族もわたしを無いものとして生活し出そうな気もします。どうしたらいいか分からず半年ほど過ごしました。

    そんな中でこのblogを拝見しました。わたしは家族の連絡先を全て消して、連絡できない状況にしています。なので、お父様の連絡を拒否してないのは、、表現が悪いのですが、、すごいなと思いました。

  • 自分の父も今年5月に急死しました。昼まで仕事をして、体調が悪いからと休日診療に電話をかけたのに「声が元気そうだから」と断られ、その日のうちに亡くなりました。
    あなたと同じで、もっとずっと先のことだと思っていました。祖母も96まで生き、父もそれくらい生きて自分が介護をする未来がくると疑わなかったです。
    半年経った今でもふと父のことを思い出します。いつかくるはずだった未来がもう絶対に来ないことを思い出し打ちひしがれています。
    親というものは不思議なものですね
    お父様のご冥福をお祈りすると共に、あなたのこの先が健やかでありますように。

  • 私は父を病死で、祖父を事故死で亡くしています。本当に後悔ってしますよね。
    後悔しないようにと言われてもその時ってわからないものなんですよね。何事でも。
    失ってわかる大切さという言葉の重みがよくわかります。
    余命宣告されて覚悟をしていた死も
    突然の死も、結局私には後悔が残っています。

    父の死から約10年、祖父の死から約2年、
    すんごく遠くに長い旅行に行ってしまったという感覚で、いまだに受け入れられていないですが
    父や祖父がいたから私が存在できていると思うと、一緒に生きてる気がしてなんだか暖かい気持ちになれます。

    お父様のご冥福を心よりお祈りいたします。

  • 両親と会わずに数年経ちます。一生会わなくてもいいとさえ思っていました。うまく言葉にできませんがすごく心が苦しいです。
    家族とはなんでしょうね。血の繋がりがあるけど他人より受け付けない。他人にはぶつけない酷い言葉も平気でぶつける。見えているけど見てはいない。
    近々会いに行こうと思います。

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