新聞記者は「スクープ」を書くことによって評価される職業である。
スクープとは、ニュース価値の高い情報を他社に先駆けて報じることだ。特ダネとも呼ばれる。
つまりほかの新聞に載っていない情報が自社の新聞に載っている、ということが最大の成果なのだ。
他社より先行することを「抜く」といい、先行されることを「抜かれる」という。記者にとって抜かれることは社内評価にも響く恥とされている。
是非はともかく、日本の記者の本質は「抜き合い」だ。
ちなみに自社だけに載っていないことは特オチといい、こうなると目も当てられない惨状である。想像するだけで胃が痛む。
だから記者は特ダネを求め、あるいは他社に抜かれることのないよう日夜、関係者への取材に奔走しているわけだ。
こうした競争と各記者の努力によるスクープが社会を変えてきたことは否定しない。
今回のブログは、その「抜き合い」を事件報道においてはそろそろやめた方がいいのではないかという趣旨の提言である。
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そもそも、記者は事件の発生を何で知るのか。まあ色々あるのだが、代表例は「報道メモ」である。
これは警察が記者クラブに加盟している報道各社に提供する発表文を指す。
「〇〇事件の被疑者逮捕について」といったタイトルで、被疑者の氏名や住所、職業などが記載されている。
この報道メモは、まさに記者クラブの既得権益だが、記者たちはこの発表文をもとに取材を行うのである。
取材に対応するのは通常、警察署の副署長、または警察本部各課の次席クラスで、階級としては警視が多い。
殺人事件であれば、被疑者と被害者の関係性、凶器、動機などを細かく取材するのだが、捜査機関というのは口が堅く、何を聞いても「捜査中」の一点張り。つまり、こうした公式取材で得られる情報はかなり少ないのだ。
そこで記者は「夜回り」を行う。文字通り、夜に警察幹部の家に行って情報を探るのである。殺人事件なら夜回りの対象は刑事部長、捜査1課長、署長などが中心だ。
時には幹部が帰宅するのを寒空の下で何時間も待ちながら、捜査情報を求めるのである。
本来、警察官が捜査情報を記者に漏らすのは違法なので、記者にとって「情報源の秘匿」は絶対に守るべき鉄則なのだ。
そしてこの非公式取材こそが「抜き合い」の主戦場である。
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夜回りなどの非公式取材で得た情報でできる記事とはいかなるものか。以下のような記事である。
〇〇容疑者が「経済的トラブルを抱えていた。口論になり刺した」と供述していることが捜査関係者への取材で分かった。
これは私が今適当に考えた雑な例文だが、「関係者への取材で分かった」という文言は非公式取材に基づく記事の定型文と言っていい。
こうした記事が他紙にだけ載っていると「抜かれた」ということになり、抜かれた記者は冷や汗とともに目覚めることになるのだ。
しかし、慣例的に続いているこの非公式取材は大きな問題をはらんでいる。
一つは、捜査当局に都合のいい情報がリークされる恐れがあることだ。本来、逮捕された被疑者は無罪が推定される存在で、犯人扱いしてはいけない。
しかし、捜査当局に拠った報道は、被疑者が犯人であることを確信させるような情報が出がちだ。しかも被疑者側には反論の機会が与えられることはほぼない。きわめてアンフェアな報道と言わざるを得ず、裁判員に予断を与える恐れも大きい。
二つ目は、報じた内容が不正確だった場合に、責任の所在が不明確になることだ。前述のとおり、記者には情報源を秘匿する義務があるので、不正確な情報を発信した「捜査関係者」が誰なのか検証することができない。
実際に、警察幹部の発言に基づいて報じた内容が裁判で一切出てこないことも少なくない。不正確なリークと報道は、責任の所在が不明確なまま、長きにわたり継続している。
三つ目は、そもそも事件発生直後は警察内部でも情報が錯綜しており、確定的に報じる段階にないということだ。
逮捕直後は検察に身柄を送致する準備などもあり、本格的な取り調べは始まっていないはずである。それにもかかわらず、数あるうちの一つの見立てを確定的事実のように報じるのは抜かれ防止の「先走り報道」にさえ映る。
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話は少しずれるが、大きな事件が起きると、記者は関連記事の取材・出稿も行う。
被疑者や被害者の自宅周辺に取材に行き、近隣住民の「怖い」「真相解明を」といったコメントを紹介する記事が分かりやすい例である。
こうした関連記事は「サイド記事」(略してサイド)とも呼ばれる。
このサイドの劣化も極めて著しいものがあるので、あわせて苦言を呈しておきたい。
具体的な言及は控えるが、最近起きたある事件のサイドで報道各社は「犯人が逮捕されてホッとした」「安心した」「安堵した」といった表現を当たり前のように使っている。
しかし、これは前述の「推定無罪」の観点から大いに問題があるのだ。
被疑者は犯人ではないし、無罪が推定される以上「ホッとした」といった表現を向けるのは不適切なのだ。
もちろん、市民感情として「安堵した」ということは理解する。問題は記者が平気でそのような表現を用い、原稿をチェックするデスクもその表現を見逃していることである。
事件報道は、惰性の中で明らかに劣化している。
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では、事件報道はどうあるべきなのか。「公判まで待て」というのも一つの考え方だが、そこまで厳格な運用は報道の現実とかみ合わない。
逮捕後しばらくは公式取材に基づく署の発表をベースとした控えめな報道にとどめ、「逮捕から10日」といった節目で捜査の進捗をまとめて報じるスタイルをもう少し一般化させるのはどうだろうか。
もちろん、報じない間も非公式取材自体は継続しておくのである。10日間あれば、それまでの間に得た情報の確度を精査する余裕も一定生まれるはずである。
そして、取ってつけたようなサイドはやめてしまってもいい。近隣住民の感想に、取り上げる価値もなければ、その住民に代表性も見いだせない。
いろんな意味で、事件報道は「速度」と決別する時期に来ていると思う。
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