一歩外に出ると、自分がここにいていいのか、いつも確証が持てない。
たとえば知人5人でいるとき、「自分以外の4人で話したいのではないか」という卑屈な考えが頭の中を埋め尽くし、なんとなくその場を離れてしまう。
仮に私が立ち去った後に、私の悪口で盛り上がっていたとしても、それでいい。むしろ自分がそこにいることで、悪口の発生を抑止していると考える方が虚しいのだ。
これが職場であれば「雇用契約に基づいて、私はここにいるのだ」と自分に言い聞かせ、その場に留まることもできるのだが、プライベートではそうはいかない。
自分の人間的魅力をもって、そこに存在することを許容してもらわないといけないのだ。私には自信がない。
だから私は若いころから、大勢の飲み会にもあまり行かない。自分がその飲み会にポジティブな影響をもたらす自信がないからだ。
現に私が飲み会に参加したところで、他人の面白くもない話題に、愛想笑いとも呼べない薄ら笑いを浮かべてばかりだ。かといって、自分が面白い話を提供できるわけでもない。
送別会などでどうしても飲み会に参加するときは、別に酔ってもいないのに酔っているふりをして「別人格」を作り出して、そこに存在している。たとえ、私が煙たがれていたとしても、そこに留まり続けたのは酔った私のせいという理屈だ。
◇
自ずと一人での行動が増える。
しかし、最近、一人でごはんを食べるにも気をつかうようになった。
カスタムが存在するような店には、店とファンが作り出した「常識」のようなものが存在する。
「にんにくマシマシ」「ミルク多めで」「シロップを追加して」といった類のものである。
私には何が何だか分からないので「全部普通で大丈夫です」などと言って、周囲をキョロキョロしてしまう。
居心地が悪い。
かといって、シンプルなメニューを提供している昔ながらの定食屋もだめなのだ。
2日連続で店を訪れた時、「いつもすみませんね」なんて声をかけられると、「もしかして連日の来店は迷惑だった!?」などと言葉の真意を探ってしまう。
だから結局、マクドナルドのドライブスルーに並んで、チーズバーガーを注文する。ここでも一人。
モグモグモグモグ。
「おいしいね」と言葉を共有する人もいないが、いたところで気をつかう。
◇
カチャ。
玄関ドアのカギを閉める。
私と犬以外には、誰もいない部屋。
冷蔵庫から「ブーーン」という音だけがしている。
寂しい暮らしだが、寂しい暮らししか選べない。
寂しい暮らしの居心地がいいのではなく、寂しくない場所の居心地が悪い。
唯一、居心地がよかったお母さんももういない。
もう、いい加減疲れた。
誰のせいでもないけれど。
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