非合理が生む豊かさ

当ページのリンクに広告が含まれている場合があります。

非合理的な選択こそが、生きる甲斐であると最近思う。

友人と酒を飲むとき、学生時代から「新宿で」ということが多かったが、これは私にとって忌むべき合理的な選択である。最大のターミナルである新宿という場所は、多くの人にとって自宅からアクセスしやすく帰宅しやすい場所だからである。それは実につまらない選択だ。

合理的ではあるが、消極的な選択である。

ここで仮に、宇都宮の餃子店に足を運んだとしたらどうだろう。行くだけでもかなりめんどくさいが、忘れられない夜になるであろう。

今の世の中は、金と時間を有意義に使うことに縛られすぎている。それも年々、急速にその傾向が強まっていると感じる。

しかし、私はもっと金と時間の無駄遣いをせねばならぬと信じている。

言うなれば、1平方メートルの床を半日かけて磨き上げるような、少なくとも経済効果は極めて薄いであろう行為に価値を感じるのである。

ロボット掃除機を這わせて、その間に仕事をするなどというのは、一見すると得をしたように思えるが、貴重な生活の一部をロボに明け渡す愚行である。

高級ステーキばかりでなく時折きゅうりが食べたくなるのと同じで、仕事や趣味ばかりでなく床をみがくような地味な行為も人生には必要なのだ。

子どものころ、よくレンタルビデオ店に行った。今とは違い、動画のサブスクなどなかった。

私はいつも、ドラえもんを借りた。ビデオ1本に10話くらい収録されていた記憶がある。

ビデオ店では「どれにしようかな」と悩み、帰宅後にはワクワクしながらビデオデッキに挿入した。

サブスクが普及した現代においては、わざわざビデオ店に足を運ぶというのは非合理的な行動なのだが、あの頃の方がワクワク感があった。

結局借りない作品だとしても、店内で見つけて手に取る行為自体に意味があったように思う。

単なる懐古主義と笑われるだろうか。

ところで、私の住んでいる場所から海岸を目指すと、片道2時間はかかる。

わざわざ休日に時間とガソリンを使い、高速代をかけてまで海など見に行く価値があるのかと冷笑に付して、自宅で過ごす選択をする者も多かろう。

しかし、それでも、私は愛車のSUVのアクセルを踏み、海を目指すのだ。

海辺を駆け回る愛犬が砂にまみれ、帰宅後には浴室で丹念に洗う手間も生じるが、それは人生を彩る面倒なのだ。

一日中、家でテレビを見て過ごすような日も好きではあるのだが、金と時間をかけて行った海岸で砂まみれになる一日が生む充実感もある。

久しぶりに遠くへ旅行に行きたい。

長時間カタカタと電車に揺られる旅もいいなと夢想し、寝台特急を調べてみたが、ことごとく姿を消してしまった。

飛行機や新幹線という合理的な移動手段によって、徹底的に駆逐されてしまったのだろう。

これ一つ取っても、合理性のつまらなさを思う。

非合理が生む豊かさを思う、今日この頃である。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

トイプードルと暮らしています。日常の思い出をつづります。

コメント

コメントする


reCaptcha の認証期間が終了しました。ページを再読み込みしてください。

目次