逮捕が刑罰化している。主にメディアのせいである。
任意捜査と逮捕(強制捜査)の扱いに本来差を設けるべきではないのだが、実際には逮捕された瞬間に報道が過熱し、送検時を狙って写真まで撮る。逮捕の一報を受けて、容疑者の所属先などは釈明に追われたり謝罪したりする。
逮捕された瞬間に「悪いやつ」と認定するような図式が日本社会に定着してしまっているのである。
これらは、すべてが間違っている。
この社会は、手続きの一つにすぎない「逮捕」というものを、大々的にとらえすぎてはいないだろうか。
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例えば、仮に私が友人の顔を1回叩いてしまったとしよう。
その友人が警察に駆け込んだ場合、警察は私を逮捕するか。答えは「逮捕するかもしれないし、しないかもしれない」である。その時々の警察署(事件によっては警察本部、検察庁を含む)の判断に左右され、そこに絶対的な基準は存在しない。
悪く言えば、捜査機関の気まぐれで、逮捕されたりされなかったりする。
裁判所に逮捕状を請求する手続きはあるが、事実上、裁判所の審査は形骸化しており、厳格に逮捕の必要性を吟味しているとはいえない。
捜査機関が「逮捕する」と判断すれば、いとも簡単に逮捕状が発布されてしまうのが現状である。
同じ行為でも逮捕される者と逮捕されない者がいるということだ。
もっと言えば、顔を叩いたのに逮捕されない場合もあれば、「偶然手が当たっただけ」と否認しているのに逮捕される場合もあるのだ。
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前述のとおり、「逮捕」となるか「任意捜査」となるかは紙一重である。
逮捕されたから悪人ということでもないし、逮捕されていないから潔白ということでもない。
それなのに、メディアは逮捕を契機に報道を過熱させる。まるで犯人視報道の免罪符を得たかのような記事さえ見受けられる。
やった行為は同じであるのに、逮捕された者は実名を出されて職まで失い、逮捕を免れた者は不問とされるなど、明らかに受ける不利益に差が出る結果となってしまう。
本来は、起訴されて有罪判決が確定するまでは無罪と推定すべきであるのに、その原則が徹底されていない。
これを私は「逮捕の刑罰化」と位置付けている。刑罰は有罪判決によって科されるはずだが、実際には起訴さえされていない人が逮捕という名の刑罰を受けていると言わざるをえない。
そして、その理不尽な刑罰の担い手はメディアであり、ひいては国民である。
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ただし、”逆”の批判もあるだろう。
最近、某政党の党首が名誉棄損の疑いで逮捕された。
一気に報道が過熱し、政党側も陳謝に追い込まれている。
しかし、逮捕を契機とするまでもなく、これまでも同じ熱量で批判を行うべきではなかったか。
警察・検察権力のお墨付きを得なければ発揮されないジャーナリズム精神は貧弱である。
あるいは逮捕された今となっては、逮捕の妥当性を検証するような構えも肝要だ。
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逮捕を刑罰化するな。
逮捕を報道の契機とすることに慎重であれ。
容疑者を犯人視するな。
こうした言葉をどれだけ投げかけても、きょうもメディア(特に民放)は微罪の容疑者の顔を撮りに行くのだ。
逮捕に無批判に全乗っかり。そこにジャーナリズムはあるか。
ため息がつきることはない。

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