きょう、実の父親が死んだと、地元の警察署から電話があった。
近所の人が訪問しても応答がなかったため、警察と消防が中に入ったところ、自宅の床に倒れていたそうだ。68歳だった。祖父は90歳過ぎまで生きたから、それくらいまで生きるのだろうと勝手に思っていた。死んだといわれても実感に乏しい。
命の灯火が消える瞬間、何を思ったのだろう。そんなことを考えてしまう。きっと脳裏に浮かんだのは私の顔だったのではないだろうか。関係性がよくなくて、私は近年ずっと父に会うことを避けていた。春先に来た「会って話したい」というLINEにもあいまいな返事をした。8月には「ステーキでもどうだ」と連絡が来たけど、それも無視した。
今さらステーキにつられるわけもないのに、その発想がいじらしい。ステーキくらい付き合ってやればよかった。
後悔はしないと思っていたのに、いざこの日が来ると胸が痛い。
□
私は、父が35歳のときの子どもだった。今でこそ少なくないが、当時はかなり遅い子どもだっただろう。きっと、結婚も子育てもあきらめ始めていたころに、結婚の機会に恵まれたのではないだろうかと思う。
だから、私は父に怒られた記憶はない。一度はあきらめていた「父になる」という夢が叶い、きっと父なりに溺愛していたのだ。怒ることができないほど、私のことが可愛かったのだろう。父にとっては、毎日がホームドラマを演じているような日々だったのかもしれない。
でも、私の推測でしかないけれど、父は先天的に何かを抱えていたように思う。注意力や共感力が著しく欠けていた。財布や通帳を落とし、靴は脱ぎっぱなし・電気はつけっぱなし、ストーブの周囲をススだらけにしたこともあった。長年押し入れにあったホコリまみれのものを平気でそのままリビングに持ってきたりと、「ケンカの種」を作り出す天才でもあった。
体調が悪くて寝てる人に「横になって同情買うの楽でいいね」などと平気で言うこともあった。悪意をもって言うなら救いもあるが、悪意なく人を怒らせることも少なくなかった。
だから、物心ついた時からウチでは夫婦喧嘩ばかりしていた。どこの子もそうかもしれないが、私はいつも母親の側についた。
□
父は、山梨の工業高校卒で、空調設備の仕事をしていた。工場や病院といった大きな建物の図面を作り、現場監督などをしていたらしい。「高卒」というのが年を重ねるごとにコンプレックスになっていったのか、東大とか慶応といったネームバリューにはめっぽう弱かった。一緒に仕事を進める空調大手の社員には、きっとそういった名門大学を出ている人も多かったのだろう。
父は自営だったから、景気がいい時には月に何百万も稼いだが、悪い時には数カ月仕事がないこともあった。二日酔いで仕事を放りだすこともあり、それでまた夫婦喧嘩になっていた。
私が東京の私大に入った後は、インドネシアでの仕事を引き受けて単身で国外に飛んだ。きっと息子を「大卒」にしたいという強い思いがあったのだと思う。二日酔いで仕事を放り投げていた男が、言葉も通じない海外へと飛んだのだから、男の意地である。名門大学とまでは呼べないかもしれないが、そうして私は大学を卒業したのだった。
□
父は、幼稚園児がそのまま大人になったような人だった。周囲から「どうしたの」「大丈夫?」と言われたいのが見え見えなほど、自分に注意を向けようとする人だった。
食事中に舌を噛んだだけで「ウェーーーー!!!」などと絶叫したこともあった。今となれば少し笑い話だが、当時は「どれだけかまってちゃんなんだ」と思った。
周りに「かわいそうに」と言われて優しくされたい人なのだ。子どもでもそういう子よくいるけど、うちの父は大人になってもそうだった。
また、風呂に入るとか、歯をみがくとか、洗濯をするとかそういった基本的なことさえできなかった。やっぱり何か先天的なものがあったのだろうと思う。
今年の4月に母親が家を離れ、離婚調停が始まってからは独居状態となった。母親側の弁護士が言うには、父親は調停にはヨレヨレな状態で現れたらしい。きっと洗濯も乾燥もままならず、シワだらけの服で裁判所に来たのだろう。髪だってボサボサだったかもしれない。
パリっとした服を着ていれば、人の見る目も違うのに。バカだなあと思う一方、これを不憫に思わない子どもがいるだろうか。
ヨレヨレの姿で調停員に白い目を向けられていたのではないかと思うと、胸が痛い。
□
今年の3月に、少しだけ実家に寄った。両親の夫婦関係が一層険悪になっていたので、少しでも雰囲気が良くなればと思って。
深夜に仕事が終わって、そのまま寝ずに高速で向かった。到着は明け方5時前くらいだったと思う。
まだ空も暗いなか、リビングで母と話していたら、父が部屋に入ってきて「ボイラーがもったいねえ」と言った。ボイラーとは、給湯設備のようなもので、灯油を使っていた。
遠路はるばる来て第一声がそれかと思った。だけど、父はそういう憎まれ口でなければ、会話に入ってこれない不器用な男だとわかってもいた。
本当は私の到着を今か今かと待ちわびていたくせに、素直にそれが表現できない男なのだ。(悲しいかな、私もそういうところがある)
わかっていたのに、私はムッとした気持ちを抑えきれずに、早々と実家を離れることにした。父は「何かおいしいものでも買ってこようか」と言ったけど、私は「もう帰る」と言って家を出た。私の車を見送る父が、とてもヨボヨボに見えたのを覚えている。「年を取ったな」と思った。
その時、父は「もう来ないか…」とつぶやいていた、と後で母から聞いた。
そんな喧嘩別れが父との最後の対面だった。いや、喧嘩別れというより、私の機嫌を損ねて慌てる父を振り切って私が実家を後にしたのだ。
そんな最後。
□
思いつくままに、書きなぐっているきょうのブログ。父に対する怒り、感謝、同情、後悔、申し訳なさが同居している。
昨日、すき焼きを食べた時、父も食べたいだろうなと思った。ねえ、もうその時には死んでいたの?
なんだか切ない。気持ちの整理がつかない。
直接言うことは叶わなかったけど、ありがとう。
いや、直接言う機会はいくらでもあったのに、それをすべて捨ててきたんだ。
ごめんね、お父さん。
でも、あんた、かなり生きるの下手だったよ。俺も下手だけど。
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コメント一覧 (29件)
大号泣してしまいました。
私も父を亡くしています。
65歳でした。
同じように不器用で、家族を困らせてばかりの父でした。
でも不器用で、本当に生きるのが下手くそで、、美味しいものをもっと食べさせて上げたかった。
もっと親孝行させて欲しかった。
今、取り戻すように母に親孝行をしています。
でも、父にも親孝行したかった。
大丈夫だと思っていたけど、気持ちがぶわっと戻ってきました。
天国に行った時には父に会って、たくさん話をしようと思っています。
貴方の愛は必ずお父さんに届いています。直接言えなかったかもしれませんがお父さんには届いています。どうかそう信じて欲しいです。
お悔やみ申し上げます。Xにランダムで流れてきた投稿で知りました。私も30代で父との関係が良くなく、しばらく会っていません。私の父も不器用な人で、私が大人になってからはきっと何か発達障害であったり先天的な問題があるのだろうなと理解していますが、今だに歩み寄れていません。少し境遇が似ているなと思いながら読ませていただきました。現在私がアメリカに住んでいて、なかなかすぐ会える状況では無いのですが、次回の一時帰国の際には会いたいと思います。
最後のごめんね、お父さんからを声に出して言ってみてください、まだ近くにお父さんがいると思って。
きっとお父さんもごめんねって思ってますよ、口に出さないだけで。
ツイッターでタイトルを見て、気になって気になって、仕事終わりに駐車場ですぐ読み、自然と涙がぼろぼろと出てきました。
私も同じです。父とは良い関係ではありません。そしてそれは現在進行系です。
ブログを読んで、私はあなたの過去にいる人間だと思いました。
好きだった所も、尊敬していた所もたくさんあって、それでも許せない所もあって、家族としての関係を続けていくのが苦痛で、
来年、家を出る予定と共に、連絡を経とうと決めていました。
後悔することがあるかも知れない、それでも、と考えに考えて、今、それを実行する手前の所に私は立っています。
あなたの姿に、勝手ながら自分を重ねました。
どうしてそんな言動を取るのか、どうしても許せない、付き合っていけないと思う父だけれども、父にとってはそうとしか行動出来ないんだろうなと思う気持ちも、あの時は折れて声をかけていたんだという気付き、返事ぐらいしてあげれば良かったという気持ちも分かります。
父が亡くなったという連絡が入った時、私はきっと、あなたと同じようなことを思い、後悔するんだろうと思いました。
おそらく、今なら引き返せるのでしょう。
“機嫌を損ねて慌てる父を振り切って私が実家を後にした”をまさに今実行しようとしていた気持ちが、今後絶対に連絡を取らないと決めていた気持ちが、このブログを読んで、揺らいでいます。
ですが、こちらが歩み寄ろうとした時、父特有の言動で自分はこれまでと同じように傷付くんだろう、父は変わらないだろうという気持ちは変わりません。
他所様のブログで自分語りをしてしまい、申し訳ないです。
まるで未来の自分を見たようで、過去のあなたと似たような存在が、今あなたのブログで迷い始めたということを、話したかったのです。
はじめまして。Xでポストを拝見しこのblogへたどり着きました。
30歳の独身女です。大卒後就職とともに上京し、それ以降一人暮らしです。
元々そこまで家族関係が悪いわけではなかったのですが、諸事情あり3年ほど前から家族との関係が悪く、一方的に連絡手段を遮断しています。諸事情についてですが、今となっては些細なことだと思いますが、その時は、20代の大切な時間をここまで使い、わたしは何をされていたの?って思っていました。
その後、あらゆる手段を使ったのでしょう、複数の親戚から連絡が来ました。(いなくなったって聞いたよ?どこにいるの?何してるの?など、、)今は全て遮断しています。
3年ほど経ち、わたしの気持ちも少し落ち着きました。また連絡してもいいかな、会ってもいいかなと思う気持ちもありますが、ここまで遮断しておいて突然連絡するのも変な感じで、、、。なんと言って連絡したら良いのかも分からないし、家族もわたしを無いものとして生活し出そうな気もします。どうしたらいいか分からず半年ほど過ごしました。
そんな中でこのblogを拝見しました。わたしは家族の連絡先を全て消して、連絡できない状況にしています。なので、お父様の連絡を拒否してないのは、、表現が悪いのですが、、すごいなと思いました。
自分の父も今年5月に急死しました。昼まで仕事をして、体調が悪いからと休日診療に電話をかけたのに「声が元気そうだから」と断られ、その日のうちに亡くなりました。
あなたと同じで、もっとずっと先のことだと思っていました。祖母も96まで生き、父もそれくらい生きて自分が介護をする未来がくると疑わなかったです。
半年経った今でもふと父のことを思い出します。いつかくるはずだった未来がもう絶対に来ないことを思い出し打ちひしがれています。
親というものは不思議なものですね
お父様のご冥福をお祈りすると共に、あなたのこの先が健やかでありますように。
私は父を病死で、祖父を事故死で亡くしています。本当に後悔ってしますよね。
後悔しないようにと言われてもその時ってわからないものなんですよね。何事でも。
失ってわかる大切さという言葉の重みがよくわかります。
余命宣告されて覚悟をしていた死も
突然の死も、結局私には後悔が残っています。
父の死から約10年、祖父の死から約2年、
すんごく遠くに長い旅行に行ってしまったという感覚で、いまだに受け入れられていないですが
父や祖父がいたから私が存在できていると思うと、一緒に生きてる気がしてなんだか暖かい気持ちになれます。
お父様のご冥福を心よりお祈りいたします。
両親と会わずに数年経ちます。一生会わなくてもいいとさえ思っていました。うまく言葉にできませんがすごく心が苦しいです。
家族とはなんでしょうね。血の繋がりがあるけど他人より受け付けない。他人にはぶつけない酷い言葉も平気でぶつける。見えているけど見てはいない。
近々会いに行こうと思います。
自分で選んで取った道だからこそ
憐憫の情がきちんと沸いたのだと思います
悲しく切なく愛しさが残ったのなら
間違いなく、主様が選んだ
お父様との距離は正解だったのだと思います
ご冥福をお祈りします
Xでたまたまポストを拝見し、こちらのブログも拝読しました。
あまりに似た境遇だったため読みながら涙がこぼれました。
私も父が35歳のとき生まれた子どもで、両親の夫婦関係が悪く熟年離婚をした後、父が独居する家で亡くなっていたところを近隣の方が通報してくれました。
逝去の連絡を受けたのはもう10年前になりますが、今でも父は亡くなるとき何を思ったのか、もっと伝えることがあったのではないか、そもそも私が離れて暮らしていてもまめに連絡していればこうならなかったのではないか、何回も何回も考えます。ずっとごめんねお父さんと思っています。
どうすればいいんでしょうね。私はまだ父に対する感謝、同情、後悔、申し訳なさでいっぱいです。
できることってきっと、母や親族など残された家族とどう生きるかを見つめ直すことくらいかなって思います。
父に対する思いは今後も消えないけど、また繰り返さないよう沢山家族や大切な人とたくさん対話しながら生きることが大切なのかなと最近は考えています。
お父様の御冥福をお祈りします。
夜は考えがぐるぐるしちゃうので、寝られそうだったらできるだけお休みくださいね。
26歳の社会人です。
2年前に同じく、関係が険悪なまま親を亡くしました。
突然死でした。
あの時のLINE、既読無視しないであげたら良かった。あの長期休みの時、帰ってあげればよかった。この服、似合いそうだな。
そんな風にふと思い出しては寂しい思いになります。
亡くなってから見えてくる良かった部分、
楽しかった思い出、不器用な優しさ。
後悔も、悲しさも、寂しさも、全てを抱えて、私はこれからも生きていくんだと思います。
これから諸々の手続きで大変かと思いますが
落ち着いたら線香をあげながら、お父様と語り合ってくださいね。
同じ地に住み、
同じ地を地元として持つものとして、
何故だか不思議な引力を感じてコメントさせていただきました。
どうか心安らかに、
あなたの人生を生きられますように。
お父様のご冥福をお祈りします。
初めまして。Xのポストからここへ辿り着きました。
状況は違うのですが、私も最近友人をなくし色々と思うことがありました。
もっとこうしたらよかっただとか、あの時のSOSを受け取れなかった自分の浅はかさに後悔と、もっと一緒にいる時間を大切にしていたらよかったと思う気持ちとでいっぱいになります。
一緒に生きてきた身内の方と重ねてしまうのは非常に申し訳ないのですが、今すぐいなくなってしまうと思わなかった人の喪失で気がつく心の穴や弱さ、そういったものを思い出しました。
親も友も、人はみんな縁で繋がるものです。私がここへ辿り着いたのも縁で、なくなった人から繋がる縁だなあとなんとも不思議な気持で記事を読ませて頂きました。
お父様のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
私も母と色々あり、連絡を無視し続けた結果に警察から連絡がありました。
私の母は何故そんな間違いを選択するのか?と子どもながらに苛立つほどに生きるのが下手でした。
恨みもあるし今も好きとは思えないけど、自分が歳を重ね大人として生活していく中で
どうしてもうまくいかない時もあったり、自暴自棄になったりを経験して
母は、母なりに足掻いていたんだろうな。と感じることが増えて来ました。
きっと、私があの時に子どもではなくて友人であれば手を差し出す事もあったろうな、と。
家族だからこそ難しいことも多いです。
後悔せずに生きることは難しいですよね。
でもいつか、あの世で会った時に「久しぶり」って挨拶できるから、まあ、いいか。って思えるようになります。その時まで精一杯生き抜きましょ。
拝見しました。最後まで一気に読み進めました、あなたの気持ちがどこか、私自身(娘の立場です)と父親の関係性のそれにどこか気持ちが重なっている感じがして、とても近い気持ちで読みすすめられました。私も、父(既にいつ逝ってもおかしくない延命期で長期特養型病院にて長かった自宅介護から施設の方に介護をお任せしています)私自身もそして、母親も強権的で自己中で自分の立場でしか物事を捉えられない、というか全て自己中で思想や考え行動全てにおいて自分勝手な父に物を言えずじまいの家庭でした。正直今の自分には「自分の方に、最後まで父は振り向かなかった」という残念通り過ぎて諦めた遺憾の念しか無く。だからどこか欠陥的な親、そしてその親に影響されて自分自身に自信が持てない自分が好きでない自分。
タラレバがあるのなら優しい叔父さん(父の兄)のほうに生まれてくればよかったな、と。
(その叔父さんも亡くなりました)
似たような孤独をあなたの文章から感じられて(否、似てない!と否定だったらすみません)
。いわゆる欠陥だらけな父親だけど、最後は許したほうがいいのかな、(ダンプ松本さんは父親を最後まで許してない、という気持ちも分かるし、青木さやかさんの教職で憎んでいた母親からの遺言手紙をまだ読めていない、という気持ちもすっごく分かる)親を最後許すのは自分自身の、ためとは世間的に言われるけど本音はこれまでのことを許せない、だから父親には関心を最後まで持てない、早く忘れたいというのが本音。家族ってめんとくさい。でも私も、親である立場なので、逆転してそう思われるのかな、そう思われても仕方ないし、その逆転返しのために娘から「私(母)を許さなきゃいけないのかな」と思うのなら、そこはごめんね。ひどい母親だったね、と言うのかなぁ。父に言われても「何が人生最後でごめん、だよ、今更すぎんよ。だから自己中なんだよ、あんたは。知らん」というのが本音。これも娘の本音か。ジレンマのメビウスの輪です。うちの家庭と自分自身が。何が言いたかったというと、あなたの文章、とても良かったです。書いてくれてありがとう。
はじめまして、こんばんは。お話くださりありがとうございます。
私は幼少期の両親の離婚により父とは三十数年以上連絡を取っておりません。貴方様が語られているお父様のエピソードが本当に愛おしく、赤の他人ながら涙ぐみました。
私は私の父親のひととなりを知ることが怖く感じます。愛おしいと思えるような人物像を少しでも知ってしまうと、会えずにいた三十数年間が間違いだったと確定してしまう気がするためです。
ですので私にとって、血のつながらない他者様のお父様のお話を聞くことが、唯一安心できる父親という存在との触れ合いで、安心できる心の慰めとなっております。
お話くださり、本当にありがとうございました。
Twitterから来ました。
私は母と2人生活でしたが、うちも同じ感じなのかなと、こちも拝見しました。
以前読んだ本で、愛着障害と発達障害の関連(岡田尊司さんの本)をここ数年で知りました。
母の生い立ちは知っていたので、そういうのもっと早く知れたら、許せなかった彼女の言動も「そうだったのか」と、より解釈できるのかと思いました。
本当、知るのと知らないのじゃ世界観や解像度が違ってきますね。
ただ子供としては、親は尊敬の多い人であってほしいのが正直なところですが、、、
Twitterからブログまで、色々発信してくださりありがとうございました。
少し脱線しますが、この「くださり」というのは「下さり」だと失礼になるよ、など未だに母のルール?が染み込んでたりします。
表現が難しいのですが…
投稿者さまのお土産の話なども、きっとあなたの中にもお父様はいつまでもいらっしゃって、また節々でお会い?できる機会はまだあるんじゃないかなと思いました。
気持ちの整理がひと段落してまた思い出した時には、改めてお父様と色んなお話しができるといいですね!
はじめまして
Xでお見かけし、こちらのブログを拝見しました
私にも貴方様と同じような父がいます
母とも離婚しており、その母は8年前に胃がんでこの世を去りました
2年の闘病生活の間、父はなにも手助けをしてくれず、葬儀だけ無駄に大々的に行ったせいで、未だに墓すら立てられていません
生前にお父様との思い出は嫌なことばかりではありませんか?
私はそうです
子どもの頃からネグレクトで高圧的でロクな思い出がありません
だから正直父には早く死んでくれとさえ思っていますし、もしいま死んだとてなにも後悔はありません
私が思うに貴方様はなにも悔やむ事はありません
長い間縁を切られるような行動をしたお父様に非があるのです
今は人の死に悲しんでおられるとは思いますが、それは時が経つにつれ傷が癒され、風化します
手間がかからず早めに片付いて良かったと思う日が来ます
あまり自分を責めないでください
ご自愛ください
Xでたまたま流れてきて、拝見させて頂きました。
まずお悔やみ申し上げます。
自分は母が38、父が51の時の子で、母は後天的らしいですが人の気持ちがわからない、片付けやお金の管理ができない人でした。
父は普段大人しいけど、お酒を飲むと変わる人でした。
子供の時は両親共に大嫌いでした。
反抗期には沢山汚い言葉を投げつけました。
友達の親が羨ましくて、何故自分の親は皆と違うのだろうと何度も考えました。
大人になって、この人達は大切に思っててもそれをどう表現していいかわからないのだと思えました。
何故子供がこんな風になるのかわからない。
またそれをどう改善すればいいのかわからない。
母親らしさ、父親らしさというのが欠如していたんだと思います。
そして自分は、それをずっと求めていました。
10年前に父は骨折をきっかけに施設に入所し、年に数回しか会わないまま亡くなりました。
施設の人から危ない状況ですと連絡があり病院に着いた時にはすでに亡くなってたのだと思いますが、母はおろおろするだけで兄弟は連絡がつかなかったので、自分が心臓マッサージをやめていいと言わなくてはいけない状況でした。
父が最後に見た景色は施設の天井だったのかな、何を思ってたのかな、と、数年間はふと思い出しては泣いていました。
現在母も入院中で、色々な事情が重なりもう2年会えていません。
今亡くなったら後悔するだろうなと思うし正直会いたいのですが、叶わないままです。
今思うのは、親のことは【嫌いだけど好き】という矛盾した感情ですがこれが一番しっくりくるなと思ってます。
自分語り失礼しました。
人が亡くなると後悔は必ずするものだと思います。
親はずっと死なないんじゃないかというような感覚の時もありましたが、必ず訪れる事です。
そして何故か、いい所ばかり思い出してしまうのです。
まだ気持ちの整理もつかないでしょうが、不器用ながらにお互い愛されてたのではと文章を読んで思いました。
これからまだ手続きやら何やらで忙しいかと思いますが、お身体ご自愛ください。
ふと思いましたが、今日は父の誕生日でした。
思い出させてくれた事感謝します。
父が出来なかった「家を買う」をやって両親を引き取って父を看取ったものの父を溺愛する母の金遣いの荒さ(全部オプションの介護費用)によって今現在も破綻寸前の綱渡り状態の我が家を鑑みるに「愛は金では買えないが金で愛は失える」と思うので、本当に両親を引き取り死に目にあってよかったのだろうか、と今でも疑問に思う。
少なくともあなたに愛はある。羨ましいとは思わんが、大事にしてください。
LINEのスクショのツイートが流れてきて、ブログまで読ませて頂きました。
この度はお悔やみ申し上げます。
たくさんツイートしてたくさんお父様を思い出してさしあげてください。たくさんの人にお父様のことを思ってもらえますように。
私の父も診断は受けていないのですがかなりADHDのきらいがあり、母とよく喧嘩をしています。嫌なところも多い昭和親父ですが楽しい父で大好きです。
イヌカワさんが心穏やかに過ごせますように。寒くなってきたのでお身体にはいっそう気をつけてお過ごしください。
長文失礼しました。
熟年離婚の末、別居していた父がアパートで孤独死しました。
彼女と住んでいると思っていましたが、いつの間にかお別れしていたようで残された部屋は荒れ果てていました。
借金もあったので父の荷物ごと相続放棄して後片付けは管理会社に委託しました。
本当に勝手な人でしたが、私は父親っ子でした。
私の大学の学生証の写真を財布に入れていました。
おそらく唯一持ち出せた私の写真だったのだ思います。
今年子供が産まれましたが、ふと「父にも抱っこして欲しかったな」と思います。
このブログに辿り着いて、救われている人がたくさんいるのだと思います。
私もそのうちの一人です。
父が亡くなり、母は70歳になり実家に一人ぼっちで暮らしています。
父とは再婚で、その子どもはわたしだけ。
父は昔ながらの九州男児で気性の荒い人で、母はそんな父に怯え苛立ち、
その矛先はわたしに向かっていました。
本当に実の親か?と疑うほどに
ひどいことを言われ続け、今でも思い出すと暗い気持ちになります。
年老いた母がひとりぼっちで暮らしてるのが、可哀想で
母も苦労してきたのだと歩み寄りたい気持ちと、過去の許せない気持ちがせめぎ合い、
日々考えては暗い気持ちになり、答えが出せずにいました。
このブログを読み、許す事は出来なくとも
自分の為にも最大限出来る事をしてあげるのが
後悔のない生き方かな、と。
死んでしまったら、きっと自分をもっと責めてしまう気がします。
そのことに気づけた事だけで、このブログに辿りつけてよかった。
イヌカワさんに幸あれ
お父様のこと、お悔やみ申し上げます。
私は母と仲がよくありません。
特に事故等もなければ先に逝くのは母だと分かっているしそうなったときの後悔は計り知れないだろうと思いながらも、仲良くしようという気が起きないのです。
今までにそれだけのことがありました。
それでも、生きている今私を保つために必要なことだと考えていました。
ですが、やっぱり100%自分にとって悪い人でないというのはやっかいですね。
気持ちが落ち着いたときに一度会いに行ってみようかと思います。
イヌカワ様に穏やかな日々が訪れますように。
ご自愛くださいませ。
こんばんは、はじめまして。
たまたま普段利用していないXアカウントにログインしたら、お父様がお亡くなりになられた投稿を拝見しました。息が止まりました。
あまりにも自分の状況と似ているのではないか、と何かしら感じたからです。
その後こちらのブログにお伺いし、拝読させていただきました。
胸がとても苦しくなります。
いまとてもお辛い気持ちが、Xの投稿やブログの記事から伝わってきました。
ここからは少し自分語りになってしまいますが申し訳ありません。
私はアラサーで、両親が中学生の時に離婚。母親に引き取られました。
ただし、離婚後も父親との接触の機会はあり、母親の悪口などを聞く中、長女であったためできる限り離婚した後も関わりを持とう、となんとなく思っていました。
ただとあることがきっかけで大喧嘩をし今は会っていません。
父親からの連絡はLINEがきます。
始めはこちらの気持ちも知らないで呑気な内容を送ってくるな、と思っていました。
そのうち頻度が少なくなり今では数年に一回メッセージがきます。中には亡くなった後にペットの面倒を見てほしいと頼むメッセージもありましたが、喧嘩の原因が父親からの酷い言葉だったため、こちらからは何も返事をしていません。
現在進行形でそれが続いており、本日私自身が誕生日の中、父親からのおめでとうのメッセージがLINEでありました。1年ぶり程です。
私は既読をつけずにいます。
ただ、このタイミングで貴方様のブログと投稿を拝見し、涙が止まりません。
後悔という文字を見ると、自分自身にもあてはまると思っているのでしょう。
なぜこんなタイミングで見ることができたのか、たまたまかもしれませんが偶然とは思えない自分がいました。
自分が後悔しないよう、今日という日は戻ってこないと思い、父親に連絡してみようとおもいます。
お礼を言うことではないのかもしれません。
ただ、貴方様ができなかったこと、悔しいと思っていることを発信してくださったことで、行動しようと思えた人間がいます。
救いにはならないかもしれませんが、
どうしてもお伝えしたくコメント失礼いたしました。
思いのまま書いてしまったので読みづらい箇所などあるかと思います。
どうか、自分を責めず、
貴方様の行動で救えた人間がいること、
それで少しでも貴方様の心が和らぎますように。
長文失礼いたしました。
こんばんは。初めまして。
記事拝読しました。お悔やみ申し上げます。
私も数年前に父を亡くし、思うところがある人間です。
記事の中の「ねえ、もうその時死んでいたの?」が非常に沁みました。
こんなことを言うのは非難もあるかと思いますが、私の場合は亡くなったと知った時安堵したのです。
父はろくでなしでした。
本当に嫌いで憎く、長女の私が将来苦労するのが苦痛で仕方ないと思っていました。
今でも嫌いです。
父が亡くなったのを知ったのは、亡くなってから半年後でした。
すでに白骨化しており、とある場所でひっそりと亡くなっていたそうです。
私たちの住んでいた家があった近くの人目につかない場所だったとのことでした。
父は最終的に家もなくなり、誰にも相手にされず、1人そこに横たわったのだと思います。
私も同じように思いました。私があのご飯を食べた時、友達と笑っていた時、もうすでに死んでたのか、と。
それでも、まだ許せずにいます。
なので、お父様を思い出し、感謝を述べられていることが素晴らしいことだと感じました。
生きていれば必ず後悔はあるし、取り返しのつかないこともたくさんあります。きっとこれからもあると思います。
でも、思い出して感謝できることは自分を許すことにつながるように思います。
私はまだ許せず囚われていますが、いつか私が死ぬときにきっと答えが分かるのだろうと思って生きています。
辛いような悲しいような申し訳ないような、複雑なお気持ちかと思いますが、どうぞご自愛ください。
あと、犬かわいいですね。
それでは失礼いたします。
私の父も先月亡くなりました。69歳でした。
田舎住まいで車の免許さえ持ってない俺は勤めてたスーパーが潰れたのを機にバック一つで派遣ですが家を飛び出し10年ほどあってません
おばあちゃんが亡くなった時も実家に帰らず
母から父が大腸がんの手術をしたと連絡してして来ても帰りませんでした
居なくなってから気付くんですよね
帰るタイミングなら幾らでもあったのにと
旅費が高いとかパチンコで負けたからとか理由さえあればめんどくさいからいいかで済ましてた
亡くなったと知り仕事休んで帰省して10年ぶりに見た父は魂の抜け殻で母は白髪が増えてました
ま、俺みたいに10年会ってないろくでなし親不孝息子も居るので蔑んでください
人の時間は有限で後戻りも出来ないし
逃れられない時が絶対来るので今周りにあるもを大切にして下さい。
最後にご冥福をお祈りします
Xでポストを見かけたきっかけでブログに辿り着きました。
お父様の性格や境遇が驚くくらい私と似ていて、涙を止められないまま読み進めてしまい思わずコメントしたくなって長文失礼します。
私の父も今年の5月に闘病の末亡くなりました。66歳でした。
俗にいう亭主関白のような父だったので、母への態度も上から目線、周りの話を聞き入れない、協調性の”き”の字も見当たらないといった自分勝手な性格で、物心ついた頃から苦手意識が芽生えていた私は大学進学と同時に家を出て一人暮らしを始めました。
適度に距離を置けば関係性が良くなるという話も聞きますが、私の場合あまり作用せず、話しかけられても悪代をついたり愛想のない返しをしたりと、父も良い気持ちではなかったと思います。
『仕事が休みの日はお父さんが料理を作ってくれる』『お父さんとお母さんが自転車2人乗りで駅まで迎えにきてくれた』といった友人の話を聞く度に『なんでうちはそうじゃないんだろう』とよく毎日思っていました。
そんな関係のまま月日が過ぎてお互い年を重ねてきたある日、母が『昔に比べ性格が丸くなった』と父のことを言うようになりました。
同時に私もそれなりの年齢にはなったので『そろそろ大人同士の会話が出来るかな』という思いも抱くようになりましたが、それでも自分から話しかけることが出来ず、苦手意識も改善されないままでした。
実家への帰省も遠のくようになりたまに帰ってもろくに会話もせず、昨年のお盆の帰省時に父からの『おかえり』に対し、私が目配せしただけなのが最後の会話になってしまいました。
どんなに悲しかっただろう、どんなに傷ついただろう、なんでだった一言『ただいま』が言えなかったんだろう…父の訃報を聞いてからずっと後悔が続いています。
父が亡くなってから、身に染みるようにわかったことがたくさんあります。
子供たちの為に一生懸命働いてくれていたこと。
大変なことが起こっていたのに心配させないようにしてくれていたこと。
母が離婚せず最期まで連れ添ったこと。
自分が建てた家が大好きだったこと。
親が亡くなるとどんなに辛いかということ。
たぶん、父のことを最後まで嫌いになりきれなったこと。
どれも今になって知ることのできたことですが、それによってこれから自分がどう生きていこうか、をさらに考えられるようになった気がします。
それは、他でもないイヌカワさんのブログもそのひとつです。
辛い中発信してくださりありがとうございました。
きっと、今いろいろな思いと共にお父様との最後の時間をお過ごしかと思います。
どうか、穏やかで温かい時間をお父様やご家族と一緒に過ごされますように。
お父様のご冥福をお祈り申し上げます。
Twitterがおすすめに流れてきて、ブログを拝見しました。
貴方のお父様の生前の言動を拝見して、正直私も疎ましく思うだろうなと感じましたし、お父様は家庭を持つのに向いた人ではなかったと思います。お母様のご苦労もお察しします。
一方で、息子を大卒にするために一念発起したところやTwitterで書かれていたようなSNSでのやりとりを思うと、亡くなったことに胸がギュッと痛み、きっと私も後悔してしまうだろうなと思いました。
友人だったら、他人だったら、縁を切ってしまうレベルの言動も、家族という関係だとそう簡単に切れない。切ってもどこかで後悔が残る。
大人になってみたら、自分にも受け継がれているところがあると感じる。
そんな家族の繋がりを、愛と表現する人もいると思いますが、私は「呪い」だと思っています。
私の父は貴方のお父様より最低最悪で、死んだと聞いたときは心の負債が消えたようで喜びすらしました。でも、小さい頃にプールに連れてった記憶だけやけに鮮明に思い出されて、その時だけはギュッと胸が潰れそうになります。
きっと、どんなに心を尽くしても、亡くなった後は「もっとこうしてあげられたのではないか」って後悔を抱くものだと思いますが、生前わだかまりがある関係ほど、後悔しやすいと思います。
嫌な記憶や憎しみばかりなのに、だからこそなのか、ほんのわずかな楽しくて煌めいていた思い出がより思い出されてしまって、私はそれが苦しく、呪いだなと感じます。
今、貴方の心には愛でもあり呪いでもあるものが渦巻いてるのではないかと思いました。
人間関係とは、家族関係というのはままならないものですね。
あまりご自分を責めぬよう、貴方の心がいつか安らぎますよう、祈っております。