これは約10年前の話である。
度重なる上司Fのパワハラに、24歳だった私は限界を迎えていた。
Fは、書類の「200」に「約」が抜けているといったレベルのことで、深夜に「殺すぞ」と電話をかけてくるような人だった。
一事が万事それである。私は気が狂いそうだった。
外部の人と電話中に横で「オイッ!」と怒鳴られたこともあった。電話の相手も驚いたことだろう。
人は心理的安全性を脅かされるとかえってミスが増えるのだと、その時知った。もはや私は「東」と書こうとして「南」と書いてしまう有様だった。
ミスが増えてさらにパワハラを受けるという悪循環。抜け出すすべも見当たらなかった。
そんな日々に耐えかねた私は、ある日の朝、胸ポケットにICレコーダーを入れて出社した。
録音することにしたのだ。
夏の暑い日だった。ワイシャツの胸にレコーダーが入っていたのだから、今思えば不自然だったと思うが、Fは気づくこともなく早速「殺すぞ」「辞めろ」と始まった。
Fのサラリーマン人生を大きく変える証拠が記録されていく。
一連のパワハラをやり過ごし、私は一旦トイレへと席を外した。ICレコーダーの再生ボタンを押す。ばっちり録音されていた。
しかし、ふと思う。これは私にとっても岐路だ。上司を人事部に訴えるとなれば、私とて社内では「腫れもの」となり居場所を失うだろうと思った。
この会社を辞めて、一体どこへ行けばいいのかと途方に暮れた。
トイレの鏡に写る自分を見つめながら、長い長い数分間をトイレで過ごし、Fのもとへと戻った。
私は言った。「殺すとかは違うんじゃないですか」と。
するとFは「なんかきさん、逆ギレか」と激高した。「きさん」とは九州の一部地域で使われる方言で「キサマ」といったニュアンスである。
そしてFは「なんや、それやったら殺すじゃなくて殴るやったらいいんか。腹に据えかねたぞ、きさん」とまくしたてた。最後に話し合いをしようと思ったのに、むしろ私の録音データは増えてしまった。
最後にFは「文句があるなら、〇〇(所属長)にでもどこにでも報告したらいい」と吐き捨てた。
そう言われて所属長に報告するほど私はお人よしではないのである。報告先は人事部一択だ。すべてを洗いざらい記載したメールを送信した。
その日の夜、Fは事の重大性に気づいたのか「すまんやった」と言ってきた。
しかし残念ながら、Fの知らないところでもうメールは人事部のもとへと行ってしまった。「すまん」という言葉を受け取らず、あいまいな返事をして終わった。
そして数日後、労務を管理するお偉いさんと人事部員の計2人が本社からやって来た。
私はUSBメモリー経由で音声を提供し、すがるように被害を訴え、Fが仕事中に焼酎を飲んでいることまでチクったのだった。
しかし、ここからがまた地獄の始まりであった。
Fは出勤停止になることもなく、同じ職場に居座り続けた。数カ月たってから厳重注意という処分だけがくだり、私はその後もFと同じ職場での勤務を強いられたのだった。
今思い返してもおかしい。まっとうな会社の判断ではない。
結局、パワハラ被害を訴えた約半年後にようやくFは本社のよく分からない部署へと異動することになった。
その時、所属長は「お前のせいでFは飛ばされるわけやからさ」と私に言った。私のせい?認知がゆがんでいる。どいつもこいつもくるっている会社だった。
ことのついでに、もう一つ書いておきたい。
同じ職場にいたIMという男の所業である。
パワハラ告発の数か月後、IMは「Fが居酒屋で飲んでいるからお酌してこい」と私に言ったのである。
開いた口がふさがらないとはこのことだ。あろうことかパワハラ被害を訴える者に対し、加害者のいる居酒屋にいって同席し、お酌をしてこいというのである。
しかもIMのふるまいは芝居がかっていた。仲たがいをした者同士を取り持つ主人公になったかのような気持ちの悪いナルシシズムを発揮していた。
私はIMに「もう会社辞めるので、ほっといてください」と言い、本当に年度末で退職した。
在職期間は1年半にも満たなかった。
あれから10年。本当にろくでもない会社だったとつくづく思うが、最初に最低の人間たちを知れたことで、今周囲に感謝できている気がする。
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