知らん人で“会話量”を稼いでいる

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話す人がいない。

孤独である。

34歳独身。両親はすでにおらず、兄弟もいない。

友人はいるが、おっさん同士で毎日電話をするのも気持ちが悪いし、相手には家庭があったりもする。

仕事はといえば、幸か不幸か在宅ワーク。業務のやり取りを口頭で交わすこともない。Slackというチャットツールに文字を打ち込み、時間が過ぎていく。

つまり、私は会話をする努力をせねば、まったく話すことなく一日を終えることができてしまうのである。

これはまずい。縁側で茶をすするだけのボケ老人と大して変わらないではないか。

「会話量を稼がないと」。謎のノルマを抱えて、焦燥感にかられている今日この頃だ。

そんなことに思いを至らせているうちに、私は一つ気づいたことがある。

我々は、「濃い関係性」ばかり重視しているのではないか、と。

つまり家族や親友や恋人といった関係性にある者である。

この社会においては、愛情や友情が過剰に美化されているようにさえ思う。

しかし、歳をとると親友や恋人といった関係性に発展することはなかなかに難しく、中年たちを苦悩させている。

そこで、私はむしろ「薄い関係性」に希望を見出すことにした。

定食屋の大将、レジのスタッフ、公園ですれ違う犬連れの青年。

こういった人たちである。

「いやあ、おいしかったです。また来ます」。

定食屋を去る際に、大将とその奥様に声をかけ、会釈して店を出る。

会話量「1」ゲット。

「可愛いですね、何歳ですか」。

犬連れの若いお兄さんに声をかける。もうすぐ3歳だそうだ。

会話量「2」ゲット。

お分かりのとおり、まったく必要のない会話である。

しかし、思えば「不要なもの」を切り捨てるようになると人生は面白くない。

幼少期は、知らない人にも平気で話しかけ、世界を広げていたはずなのだ。

犬連れのお兄さんからは「〇〇街道のラーメン屋、おいしいですよ」などという有益な情報までいただいてしまった。

ほら見ろ。現に私の世界がほんの少し広がった瞬間である。

話しかけてみるものだ。

「濃い関係性」は、それはそれで素敵なのだけど、相手に過度に依存し、期待が過大になっていくことも少なくない。

・なんで分かってくれないの

こうした不満は、距離が近いゆえに発生するものだ。

赤の他人に「なんで分かってくれないの」などと不満を抱く者はいない。

そう思えば、他人というのは快適だ。

レベル100のつながりを1つだけ持つより、レベル1のつながりを100持つ方が精神に優しい。

その中に、もしもレベル10、レベル100に発展する者がいれば、それはそれで儲けものであるのだし。

AIに聞いてみたところ、上記のような薄い関係性を「weak ties(弱い紐帯/弱い絆)」というらしい。

意外にも、私の思い付きは社会学や心理学の世界においても、一定の評価がなされているようだ。

日々の弱いつながりが幸福感や帰属感を高め、カフェの店員と会話をする習慣がある人はウェルビーイング(心身ともに満たされ、幸せで充実した状態)が高かったという研究もあるという。

つまり「コーヒーを買う」という事務的な作業さえも、コミュニケーションへと変化させることで、ポジティブな影響が期待できるということであろう。

そう思えば、街を行きかうすべての人が、話しかける対象たりえる。

なんだか、見慣れた風景が刺激に満ちているように思える。

先日は床屋に行った。

初の訪問だった。

かつては洒落た美容室に通っていたが、最近は顔そりまでしてくれる床屋が快適だ。

私も歳をとったものだ。

そしてここでも会話を稼ごうと、「最近、髪が減ってきた気がするんですよ」と話しかけた。

自虐ネタである。

そして目線をあげて鏡越しに見た理容師はつるっぱげだった。

余計なことを口にしてしまったと思うが、後の祭りである。

「口はわざわいのもと」という格言もある。

気を付けたい。

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この記事を書いた人

トイプードルと暮らしています。日常の思い出をつづります。

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