これまでも書いてきたテーマなのだが何度でも書きたい。私の通っていた高校はあまりにも無機質な空間だった。
県立の男子校。公立なのに女子は1人もいない環境で、しかもいわゆる自称進学校だった。土日はしょっちゅう模擬試験でつぶれた。文化祭や修学旅行といった一大イベントも男だけ。今書いていて思い出したが、修学旅行は沖縄だった。男ばかりで沖縄に行って何をするというのだろう。まったくもって腹立たしい。
田舎にある学校で、最寄り駅から4キロもあった。どこが最寄りだ。電車はかえって不便なので、私は毎日自宅から片道10キロ以上を自転車で通った。行きは下り坂だが、帰りは上り。向かい風に逆らって立ちこぎをしながら、なぜこんなに苦労して、あのような無機質な学校に通わねばならぬのかと悲しくなった。
通学路には都会にあるようなものは何もなかった。カフェもない、ファミレスもない。あるのは民家と田んぼ、工場くらいのものだった。途中に1軒セブンイレブンがあったほかは、高校生が立ち寄れるような商業施設は一つもなかった。
とある交差点。信号機が赤になると、私は立ちこぎをしていた自転車の速度を落とし、一呼吸つく。交差点のそばにはボロ小屋があった。「バラック小屋」とでもいうべき、ボロボロの小屋だった。戦後の仮住まいのような小屋だ。私はそのボロ小屋を見るたびに、憤りにも近い悔しさを覚えた。
都会の高校生は、放課後にジョナサンやスターバックス、歌広場などに行くのであろう。私の視界に入る、このボロ小屋との格差は何なのか。
当時の私にとって、そのボロ小屋はまるで「味のしない青春時代」の象徴だった。毎日そのボロ小屋を見ては悔しさがこみ上げ、必ず「絶対、東京の大学に行くんだ」と唇をかんだ。
当時の私には、東京人には東京人の日常があるなどという発想はなく、東京に行きさえすれば華やかに彩られた日常が自動的に展開されていくと思っていたのだ。
シモキタザワという場所で古着を買い、ロッポンギで青色のカクテルを飲み、アカサカでアルバイトをし、そしていつかはマルノウチで働くのだ。それが当時の私の人生プランだった。
高校生だったころの私にとって、救いはテレビだった。鮮やかに彩られたセットで進行されるバラエティ番組では、芸人たちが六本木のうどん屋の話などをしていた。なんという煌びやかな響きのうどん屋であろうか、と思った。胸がときめいた。青色のカクテルを飲む前に、そのうどんを食らうことも計画に入れた。
そうして、だましだまし過ごした3年間の高校生活を終えて、私が手に入れたのは東京の私大の合格通知である。第2志望だったが、そんなことはこの際どうでもよかった。東京に行ければ、第2志望でも御の字だ。
そうして18歳の私が降り立ったのは、京王線の明大前駅。狭い路地に入り組んだ電線、道を埋め尽くす人々。住人たちには申し訳ないが、おぞましく汚ェ街であった。ゴキブリの羽音が聞こえてきそうなほど汚ェ街だ。
夢見た東京の夜景はどこにあるのだ。駅前にあるビルの外階段から街を見下ろした。ない。
イメージしていた東京がどこにも見当たらないのである。
きっと、これは東京に夢と希望と幻想を抱いてやってきた田舎者あるあるではないかと思う。
すっかり意気消沈した私は、当時居を構えていた調布へと戻った。
駅のごみ箱に無造作に置かれていたバイトの求人誌を手にとったら、なんとゲロまみれだった。
どこまでも汚ェ街である。
こうして私は、すっかり萎えて、マンションに半ば引きこもるような冴えない大学時代を過ごしたのだった。
おしまい。
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