誤解を恐れていた

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私は「誤解」を恐れていた。

正確に言うと、誤解されることを極端に恐れていた。

誰かと会話をした後は、いつも自分の中で反省会が始まる。

こちらが悪意なく発した言葉を、相手が嫌な風に解釈したのではないかと不安になる。

いい例えが思いつかない。

うーむ。例えば、私が目の前の女性の服を「夏らしくていいですね」とほめたとしよう。悪意のないほめ言葉。

しかし、私はあとになって「もう秋が近いのにまだ夏の服着てるというイヤミに聞こえたんじゃないか」と延々考えてしまう。

そういう性格なのだ。

悪意のない言葉で相手を傷つけてしまうことがこわい。

だから、私は逆に、嫌な奴を演じてしまうことさえある。

悪意なく人を傷つけることに耐えられず、いっそ振り切って嫌なやつになってしまう。

嫌な奴として悪意をもって発した言葉が相手を傷つける方がマシなのだ。

素の自分が善意で発した言葉を、相手が誤解して傷つくとしたら、その方が私は耐えられない。

でも、ふと今気づいた。

私は人の心を傷つけるほどの影響力を有していない。

仮に私の善意の言葉を相手が誤解したところで、相手は私の一言など大して気にもとめない。

自意識過剰だ。

私には、善意の日常会話で人を傷つけるような能力がない。

もし私がカリスマ的な魅力ある人間だったならば、私の言葉を深読みして傷つく乙女がいたかもしれない。しかし私はそうではないのだ。

私の言葉で人が傷つくなどと考えること自体が、いささか傲慢であった。

そのように考え、自分を少し解放してあげた夜。

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この記事を書いた人

トイプードルと暮らしています。日常の思い出をつづります。

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