人生において、「直感」というものは馬鹿にできない。特に「嫌な予感」はよく当たる。これは長い歴史の中で、人間が獲得した能力であるとさえ思っている。
中3の時の高校見学で、私は「あ、この高校嫌だな」と思った。
100年を超える歴史を誇る地方の伝統校だが、古びた校舎は床がきしみ、漂う空気は湿っていた。
男子校で女子の視線がないせいなのか、在校生は一様に覇気のない顔をし、無気力に教科書をめくっていた。
一言でいえば、ただただ「陰鬱」な空気をまとった高校だった。
それなのに、私はその高校に進学してしまった。地元ではそれなりの進学校で、そこに入ると「すごい」と言われたからだ。今思えばなんの意味のない見栄を優先し、自分の直感に反した選択をしたのである。案の定、自分に合わない高校で、本当に楽しくない3年間を過ごしてしまった。
大学選びもそうだった。東京都内の私立大学を見学した時、私は直感的に「嫌だな」と思った。
都心にそそり立つ高層のビル型キャンパスに、なんのときめきも感じなかった。
どこまでも無機質な場所に思えて、息苦しいとさえ思った。その大学も東京という街も自分には合わないと分かっていた。
むしろ緑豊かな場所に位置する広大な国立大学で、ベンチに腰掛けて談笑する自分の方が本来の自分であるはずだ。
それなのに、またしても、私はその私立大学に進学した。都心の大学に通う自分がかっこいいと思ってしまった。ここでも私は変な見栄をはり、直感を無視したのであった。案の定、自分に合わない大学で、4年間を棒に振った。
仙台や長野、つくばといった地方都市の方が自分には合っていたと思うし、当時の自分もそれはうっすら分かっていた。それなのに、自分にうそをついた選択をしたのである。
ここまで書いて分かったのは、自分が自分の直感を無視するときというのは、見栄が作用している。本当は地元に帰って就職したいくせに、見栄をはって東京の企業に就職してしまったような人も多くいるのではないか。しかしスズランは日向では咲けない。華やかな場所に適さない人間もいるのである。組織や土地が持つブランドに負けて自分を売り渡すのは、日陰にヒマワリを植えるような愚行である。適した場所に自分を置かねば咲くものも咲かない。「置かれた場所で咲きなさい」という名言は間違いだ。見栄を捨てて、世間のものさしも捨てて、自分にとって居心地のいい場所に行って咲きなさいというべきである。
「合う」「合わない」は直感なのだ。直感的に嫌なものに、後から理屈をつけて肯定しようとしても無理に決まっている。たとえるなら、ピンクが嫌いな人は、どんなにロジックを講じてもピンクが嫌いなのと同じだ。その直感を無視して通した見栄は、むなしく自分の首を絞め続けるのである。
こんなことを書いている私だが、3月で会社を辞めて無職になった。ヒマワリにもスズランにもなれず、この歳でいまだ自分を植えるための土壌を探して彷徨っている。フワフワと風に揺られる姿はさながらタンポポの種のようだ。センチメンタルで誌的な無職もいたものである。どこかの土に着地して、小さな花を咲かせたい。
おわり

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