昨年の春、ある人の葬式に行った。
仕事に精を出し、家族を養い、孫にも恵まれ、死に顔は穏やかだった。
火葬炉に点火された後、私は一人で外に出た。
駐車場の横を流れる川を渡り、奥の小さなトンネルをくぐると、そこには田園が広がっていた。
誰もいない。張っていた気が抜けて、私はその場にしゃがみ込んだ。
喪服にも葬式のにおいが染みついている。
しばらくして顔をあげると、遠くのソメイヨシノから、ひらひらと花びらが舞った。
私はふと「役割を終えた人から、この世を去るのかな」と思った。
きっと人は役割を持って生まれ、その役割を果たしたら死んでいくのだ。
春の穏やかな風。
私は泣いていた。
◇
役割もないのに、いまだ生きている者がいる。
私である。
仕事を辞めて、養う妻子もなく、部屋の片隅にいる。
今ここで死んでも、誰にも気づかれず、社会に何の影響も与えず、ただ白骨化していくだろう。
悲しい男である。それなのに生きている。
「役割を終えた者から死ぬ」というセンチメンタルな考えを論破するのがまさか自分自身であるとは。夢にも思わなかった。皮肉である。
役割などなくても、そうそう死ねない。
求心力も発言力も持たぬまま、社会の片隅で細々と生きていくしかない。
それでも腹は減るから、菓子パンを口に押し込む。悲しい。
満開の桜は惜しみなくその花びらを散らす。私は路傍のスギナのように、いまだ散らす花もなく、誰にも望まれずに生きている。
◇
しかし、見方を変えれば、私にはまだ出合っていない役割があるのかもしれない。その役割を果たすために、私は生かされているのではなかろうか。
20代のころ、自分の「役割」と信じて疑わなかった仕事は、役割と呼ぶに値しない程度のものだったのかもしれない。
思えば、昼夜を問わず働いた日々だが、私がいてもいなくても別に大差なかったようにも思う。
それなりのネームバリューと給料があると、立派な役割に思えてしまうのが人生の罠なのだ。きっと役割というのは、他人によって用意されたものではない。
私にしか成し遂げることのできない何かがまだ残されていて、それを果たし、穏やかな死に顔を与えられる日が来るのかもしれない。
「お前にはまだ果たすべき役割がある」。
神様がそう言っているに違いあるまい。
そう思えば「役割を果たした者から死ぬ」という言葉は、今の自分への激励のようにさえ思えてくるではないか。
と、えらそうなことを書いているが、今のところ自分の役割が見つかる気配はまるでない。今日は3時間も昼寝してしまった。
遠い永眠を前に、惰眠をむさぼる日々である。
おわり


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